2017/05/10 08:00
2017/05/10 08:00
厳しい受験戦争から「取り残されるのを恐れ、チャレンジしない気質」と呼ばれるシンガポール人。「テストをしない」「順位付けをしない」「かならず社会や産業に必要とされる」新しい形の教育システムで、そういった気質まで含めて国の形をアップデートしようとする試みが行われている。シンガポールサイエンスセンターの館長、メンリム博士にインタビューした。
受験戦争国家シンガポールで育まれる「キアスー」気質
自分だけ負ける、出遅れることを恐れることを指して、「キアスー」(Kiasu)と呼ぶシンガポーリアンの気質がある。多民族国家のシンガポールだが、どこかの民族から来た言葉というより、競争社会で生まれ育つシンガポールの制度からきた言葉だという。(筆者注:単語そのものは、驚輸と書く福建語)
シンガポールの受験戦争は激しく、小学校のうちにPLSEという共通学力テストが行われ、勉強に向いているかどうかの適性を見て大学行き、ポリテクニーク(高校と大学の中間にある高等専門学校。修了時に大学に進む学生もいる)行きなどのコース分けが行われる。タイガー・マザーと呼ばれる教育ママなどはいろいろな報道で見かける話題だ。
実際に効果は出ていて、経済協力開発機構(OECD)が3年に1度実施している「国際生徒評価のためのプログラム(PISA)」の最新版2015年度調査{.markup–anchor .markup–p-anchor}でシンガポールは世界トップ、それ以前の調査でも上位グループにあり、特に数学を中心にした理系科目に強みがある。シンガポールの閣僚も数学や医学、コンピュータサイエンスなどの修士/博士が多く、現在のリー・シェンロン首相はケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジという、ニュートンなどを輩出した世界有数の数学スクールを首席で卒業している。

そもそもシンガポールは国の成り立ちそのものから、人種や身分にこだわらない徹底的な能力主義を旗印にしてきた。
かつては同じマラヤ連邦だった隣国マレーシアがマレー系優遇政策を取るなか、世界から積極的に留学生や移民を受け入れ、能力があればチャンスは与えられることを国策にしてシンガポールは発展してきた。
経済成長に従って世界中から集まる留学生たちとシンガポール国民が切磋琢磨していくことが、現在の教育国家の一因ともなっている。
1980年ごろまでの、国全体に余裕がなかった時期はトップ10%のエリートコースだけに集中して投資する教育が行われていたが、現在は国家予算の25%強を教育予算に費やし、すべての階層に多大な教育投資をしている。

サイエンスセンターが生み出す新しい教育
一方で、徹底した能力による選別とそこから選ばれる優秀なリーダー達の存在は、リーダー層への深い信頼を生み、「置いていかれるのも嫌がるが、自分からはチャレンジしない」キアスー気質を生んだ。情報化社会が到来し、作業内容が決まった仕事がどんどんAIやロボットに置き換えられていく現代社会の中、シンガポールはどの階層からもイノベーションが発生するような、新しい段階が求められている。
シンガポールの体験型科学館、サイエンスセンターシンガポールは、STEM.INCという300人もの職員を抱える新しい組織を作り、この課題に取り組むことになった。
エリート層だけでなく、シンガポールのどの学校からも特徴と多様性を持った人々が育つような教育プログラムだ。
シンガポールサイエンスセンターの館長T.メンリム博士(以下メンリム)は、「キアスーなシンガポール人はもう古いものだ」として、以下のようにインタビューに答えた。

メンリム「STEM教育(Science、Technology、Engineer、Mathematicsの頭文字を取ってSTEMと呼ばれる、課題発見型の理数系教育)はアメリカから始まった世界的な流れだけど、シンガポールのプログラムはより効果的にするためにゼロから考えた、実践的なものだ。海外のプログラムとも、シンガポールのそれまでの教育システムとも違う。
ゴールは2つ。
- [すべての学生を、科学を好きにすること]
- [STEMはあくまで教育で、シンガポールの国力を向上する成果がきちんと出るものであること] を目指している」
STEM.INCの活動について語る、STEM.INC principalのGopal(字幕:高須正和)
すべての学生を、科学を好きにすること
メンリム「STEMは、問題について自分で考えて解決策を用意するためのものだ。正解と突き合わせるテストは行わない。
2017年の時点でプログラムの対象になっている62の中学校に、トップクラスの学校は含まれていない。子供たちは『自分たちがあまり優秀でない』ことを知っていて、だから勉強は好きではなかった。
STEMはテストを行わない。作ったものをお互い見せあい、よくできたものを表彰したりもするが、それは全員に付く順位ではない。
学校そのものにも順位が付かない。それまでシンガポールの学校はどの学校も同じテストのもと、いつも順位を気にしていたが、STEMはシンガポールの産業界と話しあって今後シンガポールで必要になる12の技術カテゴリを決め、学校ごとに割り振った。どの学校にも専門の役割があって、社会から必要とされるものだ。

この技術のどれかを身につけ、問題解決ができるようになれば、間違いなく社会から必要とされて評価される。それは自信につながる。これまでのように上から順番はつかない。どのプログラムでも1年目は学校で子どもたちが行い、2年目からは実際の企業でのインターンなどが行われ、3年目は実社会でやっていることが学習の中心になる。成績の良さとインターンでの評価は必ずしも一致しない。よりさまざまな形のタレントが自信を持てるようになる」
STEMはあくまで教育で、成果がきちんと出るものであること
メンリム「STEM.INCは教育プログラムを作り、先生をトレーニングするための組織だ。先生を教えるトレーナーは、それぞれの業界からの実際のエンジニア出身者をトレーナーとして選んでいる。
シンガポールは日本と違い、ある程度ストーリーをもって転職を繰り返しているほうが市場価値が上がる。
エンジニアの経験に加えてトレーナーとしての経験を積みたい人たちが3年間のプログラムに応募してくれている。まずエンジニアでなければ、学生に「エンジニアはいい仕事だ。エンジニアになろう!」と、自信を持って言えないだろう?
もちろんSTEMは教育だ。たとえば分野のひとつ、バイオメディカルをやろうとして、科目で生体センサーを作るとすると、電子回路の作り方と人体の仕組み両方を学ぶことになる。
これまでの教育同様の知識は身に付くし、関連性のある分野で手を動かしながら学ぶことで、これまで以上に学べるのではないか。STEMによりこれまでより学習が楽しくなり、より多くのエネルギーを学習に使えるようにすることが目的で、テストや競争をなくしたことで単純に得られるものが少なくなっては意味がない。
その意味で、STEMにArtを付加してSTEAMと呼び、アートとサイエンスを分けてしまい、数学やエンジニアリングからさらに遠ざけてしまう呼び方はちょっと危惧している。もちろんSTEMでも発想やアイデアはとても重要だ。12カテゴリの中のいくつか、たとえばゲームなどでは美的なセンスも必要だ。そうしたアイデアやセンスは楽しみながらいろいろと試す試行錯誤の中から生まれる。その意味でアートはサイエンスの向こう側にあるものであり、一体だと思っている。
シンガポール人は官僚になりたがる人が多く、世界的にはアントレプレナーを生み出しにくい。自分でビジネスを作る、起業するマインドをもつ人たちがここから出てくることに期待している。STEM.INCに、わざわざ会社名を表す"INC"を付けたのはそういう期待がある」
STEM.INCの成果とこれから
メンリム「これは2007年ごろから始まったプロジェクトで、数年かけて方向性を検討し、2014年に最初の中学校で実施した。いまは62の中学校で実施しているが、もっと多くの希望があり、新規参加をお断りしているような状態だ。
参加している学校に大臣が視察に来たり、航空宇宙学のスクールがアメリカやフランスと交換留学を始めたり、このプログラムは有名になった。なにより子どもが自信を持ったことが親に伝わり、親がなるべくSTEMのプログラムを行っている学校に子どもを通わせようとしつつある。STEM.Incは企業とのインターンを増やし、そこにはGoogleのようなグローバル企業も加わっている。実際の企業で知識と経験を身につけることはアントレプレナーシップの育成にも役立つ。
2017年は"Committee on the Future Economy"として、未来のシンガポールに向けて注力すべき7つの提言{.markup–anchor .markup–p-anchor}を、経済大臣を中心にしたグループがまとめた(全文PDF){.markup–anchor .markup–p-anchor}。「実際的な深いスキルを持つこと」や、「デジタルを強く活用すること」は、すべてのシンガポール人が求められている。
Maker FaireもSTEM.INCも、シンガポールでは「あたりまえ」のものになる」
キアスーを超えていくシンガポール
メンリム館長のシンガポールサイエンスセンターは、Maker Faireシンガポールの運営主体でもある。STEM.Incの活動とMaker Faireは、教育プログラムとアウトプット先としてつながっているし、科学を楽しませるという目的を共有している。
好きが高じた発明品が、クラウドファンディングなどでファンの支持を得て、世間を変えるイノベーションを生み出すのは、「Makerムーブメント」と呼ばれるひとつのトレンドになってきている。Makerムーブメントの発信源となった雑誌『Make:』の編集長、マーク・フラウンフェルダーは、優れたMaker(作り手)についてこのように語っている。
彼らの秘密は、彼らが何か特別なものを持っているというよりは、むしろ何かを持っていないことにある。それは、失敗に対する恐怖感だ。ほとんどの人間は失敗を恐れる。そのため、自分の力量を超える技術を要することには手を出そうとはしない。
(『Made by Hand — ポンコツDIYで自分を取り戻す』 オライリー・ジャパン)
最初に触れた「キアスー」とは真逆のマインドセットといえる。そのシンガポール版を運営しているのもこのシンガポールサイエンスセンターである。シンガポールサイエンスセンターは、さらに巨大に生まれ変わるべく、2020年をターゲットに首相直轄のプロジェクトとして改善プランが練られている。
受験戦争がキアスー気質を生んだシンガポールは、さらに効果的な学習を行うことで、自らを超えていこうとしている。
By TAKASU Masakazu/高須正和{.p-author .h-card} on March 23, 2025.
Canonical link Exported from Medium on February 6, 2026.